2020年06月01日

我!今ここに反省を文字化する!


我!今ここに反省を文字化する!


反省とは、人間の認識である。
人間の認識とは、頭脳に浮かぶ像。
人間の頭脳は、心的・頭的に働く。
心は感情(的)・頭は理性(的)と言われている。

なので、
反省とは、「構造的…」と言われていて、
そこには、後悔・感情が伴ってしまうモノだろう。


反省の二重性、
感情に囚われている「感情的反省」。
理性を中心とする「理性的反省」。


今までの、私の反省の始まりは、
殆どが後悔の感情からであった。

しかし、今回は、
「ちゃんと確り読めばよかった」という後悔よりも、
「ミスったけど…でも良かった」から始まっていた。


その反省した出来事とは、
休校していた勤務校へ今日から出勤した事である。


5月26日に、副校長から電話で以下のような事を伝えられた。
補助員の勤務は、6月1日から。
支援学級の補助員の勤務は、
O先生から、また連絡がある、だろう。

その後、私の思った事・思い出した事は、
5月の初めに、
支援学級の主任教諭のO先生からメールで、
勤務は、たぶん6月からだろうと伝えられた事。

その後、
5月30日のメールで
「…先生の勤務は……月火木金…」
と知らされた。


そこで、今日、私は、
数か月振りに、5時40分頃に起きて、
愛犬の散歩、愛犬と愛猫の餌やり、
愛猫のトイレ掃除・ゴミ出し、朝食…を済ませ、
8時20分頃に自転車で出勤した。

8時25分ごろに学校に到着して、
出会った先生方・児童に朝の挨拶をしながら、
特別支援学級教室へ入って、O先生に挨拶したら所…

開口一番が、
「あれ?先生…今日からでしたっけ…?」
であった。


………中略………


なんとビックリ!

一昨日のO先生メールには、
「8日から月火木金でお願いします」
と書かれていた…(事を知らされた)

携帯を忘れた私に、
O先生は、スマフォを出して、
そのメール文を見せてくれた。


その時の私は、心から笑って、顔も笑っていた。

それは、
間違った理由も、
何故そのような間違いをしてしまったかも、
そして、今後はどうすればいいかも、

全て浮かんできたから、だろうか…
久しぶりの学校・雰囲気が新鮮だったから、だろうか…

そこには、
「損してしまった感・ミスって悔しい感…」が全くなかった。
そう、そこには後悔の感情がなかった。


その理由は、家から五分・自転車で…
登校するのに、大きな苦労がなかった事。

失敗しても、
先生や児童に久しぶりに会えて「嬉しい感」があつた。


今回の失敗理由は〜

確りとメール文を読み取らなかった。
確り読み取らなかった訳は、私の思い込みの深さ。


この思いが深くなった訳は、

初めのO先生メールの後、

学校からのメールで6月1日から
分散登校が始まる事を知らされていた事、

副校長からの連絡から補助員も
6月1日からと知らされた事。


私自身、副校長の電話連絡以降、
O先生メールが届くまでの4日間、
特別支援学級も6月1日同じだと、思っていた。

その4日間の思いの連続で、
その思いが、深い思い込みレールに量質転化化してしまった結果…


その思い・深い思い込みレベルの感情・認識で、読んだO先生メール文だから、
書かれていた「8日」を飛ばし読みして、自分勝手に『1日』だと思ってしまっていた。



今後の反省点として、

自分の思い込みが深くなる前に、情報確認、現実確認、をする事。

今回であれば、副校長の電話の後、直ぐにO先生にメールで、
私の出勤日の確認をすれば、こんな間違いはなかった。
















ラベル:過程的構造
posted by 自由びと at 12:13| 東京 🌁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月30日

〜「勝負論」と「上達論」〜

〜「勝負論」と「上達論」〜


「武道の理論」に書かれている、
「勝負論」とは、言い換えるなら、「使い方の論理」であり、
「上達論」とは、言い換えるなら、「創り方の論理」
である。

今、ここで、この二つの論理を、
「文字・言葉の習得・修得」で考えてみよう。


ここでは、
文字は書くモノ、言葉は話すモノ、とするなら、

文字とは、自己の認識を、書いて、視覚的に他人に伝える為の手段・モノ・道具。
言葉とは、自己の認識を、音声で、聴覚的に他人に伝える手段・モノ・道具。

独り言は、あっても、独り書きはない。
それでも、日記がある・
日記は、独り書き?


文字は、継続的・残りえるモノ。
言葉は、瞬間的・消えるモノ。
でも、現代では録音して保存可能。


さてさて、

「勝負論」・「使い方の論理」では、
目的は、他人に伝わる・ように伝える事。

「上達論」・「創り方の論理」なら、
誰にでも、判読・判別可能なモノを創る事。


文字・言葉には、必ず決められた理想の視覚の型と音声があり、
それらを正しく習得する事が「上達論」の論理・目的。

「勝負論」では、それら自己の認識に合致する形での
書く・言う・表現の修得が目的・論理である。

よく言われる事に、

㈠  「言葉は、相手に伝わればいい!」
㈡  「文字は、相手が読めればいい!」


これらは、「勝負論」的な見地として正しい。
しかし、「上達論」的な見地として正しくない。


今、以下のような、具体的な場面で考えるなら

授業中でも、児童・生徒への先生の指導場面。


児童の年齢によって、
先生の指導目的によって、

同じ、児童・生徒の文字・言葉でも、
先生の具体的指導は、
「上達論」重視して指導と「勝負論」重視によって異なってくる。


児童の自己の意見・言葉には、発言なら、「勝負論」重視で、少々の違いは黙認。
朗読なら、極力理想的・正しいモノへの指導が不可欠必要。

でも…先生の指導方法に対して、
児童・生徒に反感を感じさせたら、
「勝負論」・「上達論」的には正しくても、
「指導論」・「教育論」的には、間違い失敗であろう…


人間関係においての「論理」的実践を考える時、
その実践に論理的判定を下す時、
対象が人間である以上、その根底には正しい「人間論」が不可欠である。


さてさて、以上の記事の論理的評価は?

「上達論」しては、
文字はパソコンであるから論外。
音声はないから、言葉としても論外。

それでも、認識の表現としての言葉なら?


思っている事・事実的場面を、
「勝負論」・「上達論」で考えようとして、
自分で読んで、自分である程度納得しているから、
認識・表現の「勝負論」としては合格。

また、具体的場面を思い・認識を止めながら、
「勝負論」・「上達論」的にみつめようと、しているから、
「上達論」としても、まあまあ合格だろう。


この場合の「上達」とは、
師範の「認識学」の再措定・過程での
取り組み内容の上達であるが…


もっも…
上記の判定・評価は、私が私へしたモノであるから、
これは、主観的・観念論的なモノであり、
唯物論世界観の再措定中の私としては、
「上達論」としては論外である。

それでも、
「主観的・観念論的…」と客観的に判断が、できているから、
結果的に、唯物論的に認識しているから「勝負論」として、合格!である。

でも、他人が読んで、上記の記述が理解可能かどうか不明であるから、
言葉としは、「勝負論」では、不合格である。


以上のように、論理には、多重構造が見て取れる(ありえる)。

これらの多重の論理を構造的に捉える事が必要。
この構造的には、
「自然の構造」的、「社会の構造」的、「精神の構造」的があり、

自己の目的達成の為には、
上記の構造を弁証法的に、
組み立て合わせる必要がある。







posted by 自由びと at 13:43| 東京 ☀| Comment(0) | 言葉・概念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月01日

「頑張る」について…



以前、どこかに書いてあったのを読んだが…

「頑張って!」と言うと、「『頑張る』って、言わないで…!」とか、
「もう〜頑張りたくない、頑張るのを止める!」とか、

「頑張る」事を嫌がる。
「頑張って!」と言われる事を嫌がる。
そんな人・そんな心理状態になっている人がいる、らしい…


でも、よく考えるなら、

人間は、
初体験の事や初心の頃は、
何事も頑張って続けねば、
頑張って、その事と関わり続けねば、
頑張って、その事を続けている自分と関わり続けねば、
その事を習得でき難いモノである。


病気になった人は、病気になるような頑張り方、
風邪をひいた人は、風邪をひくような頑張り方、
成績が良くならない人は、ならないような頑張り方、
健康な人は、健康でいられる頑張り方、

問題は、目的解決の為の「頑張り方」をしているか?否か!であろう。

健康な人は「健康になろう!」とは、頑張らない。
普通の人は、「風邪をひこう!」、とは、頑張らない。
病人は、「病気を発展させよう!」とは、頑張らない。



病人に対しての「頑張って」とは、「頑張って病気を治して」である。
この時、病気の治し方たを熟知していれば、「うん、頑張る」と言える。
しかし、直し方を知らない場合は、「…頑張れない…」となり得だろう。

新型コロナウイルスの退治薬・方法が未開発の現在、
我々は、ウイルス退治には、頑張れない。
可能なのは、ウイルスを体内へ入れない頑張り、であろう。


普通に、「頑張る」事は、悪い事ではない。
しかし、「頑張りが過ぎる」なら、その「頑張り」は悪である。


本来の「頑張り」とは、自己の不足部分の強化・補充の為であろう。
出来ない事だか、「頑張って」出来るようにする。
「頑張れない」から「頑張って」「頑張り」の習得が必要なのだろう。


図形の「円」を描く時、
全てのトゲトゲを無くして、
曲線で描こうと「頑張る」。


「頑張る」に、必要なのは、目的意識。
それは、「何を、どのように、どれだけ…」頑張るかという意識。

「頑張り過ぎ」とは、
「頑張る事」を止める必要がある時に止められない。


問題解決の為の、
解決法の習得・上達…に
必要な事柄の「頑張り」なのに、

いつの間にか、
習得・上達を阻害してしまうょうな頑張りとなっている。


健康な人は、健康でいようと頑張らない。
だから、健康維持の為の食事・運動・睡眠…に頑張る事はない。
そこから、
仕事の頑張り、規則的食事を頑張らない、
遊びの頑張り、必要に睡眠を頑張らない、
休息の頑張り、必要な運動を頑張らない、
飲酒の頑張り、必要な飲食を頑張らない、


自分の好きな事は、「頑張る」必要はない。
好きで普通に出来ている事を「頑張る」事は、「頑張り過ぎ」になろう。
頑張るのは、出来ない事。
やるべきなのに、やれない事。

やりたい事でも、
目的達成の為の邪魔になるよう事なら、
時には、頑張って無視・やらない努力が必要、なのだろう。


「頑張って」やる努力。
「頑張って」やらない努力。


やるべき事を、「頑張って」やらない努力。
やるべき事を、「頑張って」やる努力。

やるべきでない事を、「頑張って」やってみる努力。
やるべきでない事を、「頑張って」やらない努力。


「頑張る」が必要なのは、
現在の自己のの思い・考え・ココロ・アタマ・感情での違和感があり、
自己の意志に反するような、言動・取り組みの実行の際なのだろう。










ラベル:認識論
posted by 自由びと at 11:47| 東京 🌁| Comment(0) | 概念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする